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【オキュパイ大飯公判】7月17日、福井地裁11時、判決です。注釈付き川崎さんの意見陳述、必読です。

7月17日11時より、福井地裁にて、判決です。
ぜひ、福井地裁にお集まりください。

そして判決を前に、いまいちど、川崎さんの最終意見陳述をご一読いただければと思います。
(少しだけ、蛇足を承知で「救援会注」を入れました。文責は、MKにあります。ご意見、ご批判は、MKに願います)

福島第一原発の爆発により、いまなお、多くの方が避難を強いられ、或いは、「安全」ではない場所に閉じ込められています。
食べ物が、大気が海洋が森が大地が、汚染され続けています。
にもかかわらず、昨年の夏、大飯原発の再稼働は強行されました。

身を挺して、再稼働を止めようとした者。
経済、利益最優先で、他の犠牲を厭わない者。
鵜飼裁判長は、何をどう判断するのか。
アンクル・トムやブラック・ジョニーのままでいるのか否か。

ご注視ください。
そして、ひとりでも多くの方に、この公判のことを伝えてください。
この夏も、また「再稼働」が押し寄せてくるのです。


意見陳述書
2013年5月24日
はじめに
 本公判は、検察によれば2012年6月30日の15:30ころから約5分間程のオキュパイ現場において行われたとされる行動が刑法違反であったように描き出し、その実行者が被告人であるとすることによって公判が維持されています。

  検察側はその責任において証明するべき責任を放棄し、起訴内容を証明できないのは、被告人が黙秘権を行使することによって生まれたと責任転嫁の展開をおこなってきました。また、公判を指揮する裁判長も、証人の匿名化、遮蔽措置の強行など、検察側要請に完全に迎合した訴訟指揮を行なってきました。
 
  証人の遮蔽措置は、5分間に現場周辺にいたと主張する証人の全てが、現実に被告人として出廷している私自身を、現場で見たと供述した本人なのか否か?マ ジック・ミラー越しや写真を通してしか確認できないという結果を生み出した。D証人などは、遮蔽措置の内から実際に現認できないにもかかわらず、「この人 に間違いない」と明々白々な嘘を公判廷の場で証言したのです。この一事だけでも、本公判が異常な状況で行われたことは明らかです。


2011年3月11日とその後の現実は何か?
 2011年3月11日のフクイチ・シビアアクシデントの事故から2年以上が経ちました。
今も続いているフクイチでの放射性物質の発生は未だに止めることもできずにいます。
今年3月の段階で、敷地内の放射能汚染水を管理するタンクが敷地内だけでは足りなくなるような状況になっています。また、放射性物質が今でも東日本一帯に拡散し続けているのです。
  「重い物質で遠くまで飛散することはない」とされるプルトニウムがつくば市で確認されました。メルトダウン・メルトスルーした核物質が圧力容器・格納容器 を突き破って凝集し、各原発の下で“小さな太陽"となって、何千度とも言われている重い核物質の融点・沸点以上の温度でそれが気化し、飛散する状況になっ ているのです。(※補足1)

 しかも、「絆」と称して震災ガレキ=放射能や6価クロム・アスベスト・ヒ素などに汚染されたガレキが日本各地へ拡散させられ、焼却による拡散と焼却灰が普通ゴミ同じ扱いで埋められ、放射性物質は拡散し続けています。
 東京電力と政府のフクイチ・シビアアクシデントの責任はうやむやにされています。
放射能汚染の深刻化と焼却ガレキは、日本中に放射能汚染を拡散し続けているのです。
 ガレキの拡散は、全国に拡散することによって被爆地の被害を相対化し、被害原因を放射能由来とはしない、即ち、賠償を回避することを目的としたものなのです。
 また、これには巨額の税金が投じられ、資本・自治体などの利益の為にはそこに住む住民の健康や命は、全く顧みられてはいないのです。

 東京電力によれば『無主物』であると強弁する飛散った放射性物質は拡散し、大地に積もっているのです。私たちは拡散した放射性物質が完全に無害になるまで十万年続くということを想定しなければならないのです。(『福井新聞』「原発の行方」シリーズ参照 http://www.fukuishimbun.co.jp/...........)
  多くの民衆には、十万年後の未来の安全まで考えて生きていくことは、ほとんど不可能です。多くの人々がこのことを知りながら、原発推進の利権構造とメディ アによる「安全・安心」鼓吹報道によって、忘れたフリをさせられているのです。今後、突如として放射能汚染に端を発した大量の病人や死者が生まれるまで。 放射能汚染は確実に、そして静かに大地と空を汚染して、人々の健康を蝕んでいくのです。

 人間は長期に渡って不安を抱えたまま警戒しつつ生活することはできません。放射性物質が放出され、拡散し続けているという現実は変わらないにもかかわらず、素知らぬ顔で暮らすことを半ば強制され、生きていくことを選択せざるを得ないのです。
今日や明日にも病気になって倒れるわけではない。だから、「もう考えないようにする」という、やむにやまれぬ選択なのです。
 本当に考えなくていいのか。現実はますます危険になっていると言っても過言ではないのです。誰もが責任を取らないまま、事態は深く静かに進行しているのです。

 福島ではすでに3人の子供たちが甲状腺癌になってしまいました(救援会注あり)。さらに「あと7人も、癌の疑いがある」という。たった9万人の検査から出た数値なのです。全員が検査を終わっていないうちから、すでに3人が発見され、さらに7人も疑いがあると報道されているのです。


<救援会注> 本意見陳述の行われた5月24日から12日後の6月5日、福島県による甲状腺検査で、12人の子どもが甲状腺がんであると診断された。http://toyokeizai.net/articles/-/14243


 福島県立医大では「放射線による影響ではない」と放射能との関係を否定しています。医学者としての良心に従って、未来に対して責任ある態度をとるべきです。
また、今回のこの問題では司法も重大な責任を負っています。子供たちの避難を求める裁判で「安全とは言えないが、避難の必要はない」と門前払いをしたのです。(仙台高裁)

 フクイチ原発では、現場は放射能が高く、人間が近寄れないのです。そして、日々放射性物質を吹き上げ、遠くまで汚染が拡散され続けているのです。
今年3月、東京電力は2年経ったフクイチ原発を報道陣に公開しました。
「溶けた燃料をどうやって取り出すかはまだ検討段階」。2年経っても「検討している」段階なのです。安全に密封されるのはいつになるか未定なのです。収束には全く至っていないのです。

高橋毅フクイチ所長発言「溶けた燃料の場所の確認、取り出しはいつになるか分からない。米スリーマイルアイランド原発では10年かかった。それより厳しい状態で、10年以上かかると思う」と。

 放射能が消えてなくなるわけでもありません。また、フクイチ原発の放射性物質の生成・拡散が止まっていないのだから、後から後から放射性物質は飛んでくるのです。
 そして、放射能汚染は蓄積される一方なのです。福島県内では、住宅や学校、公園など、汚染土がそのまま放置されている状態になっているのです。そんな状態で不安を感じないはずはありません。不安を抱えたまま暮らしているのが現状なのです。
 福島にいまだ残されている人たちは、行政からの定住の強制や移住することの困難な生活状況の中で、完全に見捨てられているのです。

  これらの人たちは、これから何かの病気になったとしても、放射能との因果関係など証明されることは絶対にありません。統計となって記録される。これが現在 行われている福島県の医療です。データはとっても放射能由来の病気とは絶対に診断されることはなく、「放射能が原因では?」と質問することさえ妨害されているのです。私たちは、この現実を他人事としてしまっていいのでしょうか?

 子供たち1人1人の病気になった因果関係を特定することは医学的には難しいかもしれません。統計によって始めて放射能汚染が原因だと特定されることになるというのでは、確実にある一定の犠牲を前提にしてしか判断しない、責任を回避することでしかありません。これが医学での疫学調査であるとするなら、そのときは、すでに多くの子供たちが首にメスを入れられて「フクシ マ・ネックレス」になっているか死亡するかを前提にしてしまうのです。こんな事態を放置するのは、殺人や傷害の犯罪だと言うべきなのです。
(※補足1)

 私たちは、水俣病の悲劇の歴史を既に知っています。
水俣病被害者に対する補償が確定するまで、50年以上の長年月がかかったのです。当時先頭に立って責任回避に動いたチッソ資本・行政・医学会や司法の責任者たちは責任を回避できたのかもしれません。しかし、継承されている方々がこのことに無自覚であってはいけないのではないか? 過去の過ちを教訓にして改めるべきではないのか? と考えることこそが、人間としての正しい選択ではないかと思います。

 過去、常に繰り返されてきたこの責任回避、無責任体質があるかぎり、同じ悲劇が繰り返されるのだと考えています。そして、その責任者達が犯罪を実行する動機を支える有力な一つに、責任回避を援助する、 今日までの司法なのです。このような司法の課題に対して、どのような立場を選択するのか? 改めることなく、「権力者の飼い犬に過ぎない。司法判断の基準は為政者・権力者の利害のみだ」と、民衆からの信頼を失っても構わないと考えるのか否かなのです。裁判官をはじめとする皆さんが、過去何度も繰り返されてき たジェノサイドとも言うべきあり方に加担することを基本として生きるのか? それとも法の精神の原点に立ち返って、あまりにも当然すぎて憲法その他に明文化 されなかった『人道』の精神を基本に法律実務を実践していくのか? この場にいる裁判官に問われているのです。

 今日の体制の下で裁判官として司法に従事することの根本的な矛盾は、支配者や権力者の利益や、彼らの立場の維持のために、法的な追認機関としての役割を果たせなければ自己の立場をも維持できない地点に追いやられることの危険性であることは十分に承知しています。しかし、それでもあえて「あなたは自分の良心に従うことを放棄して生きるのか?」と問わざるを得ません。

 抵抗権)行使過程における不可避な行動(救援会注あり)を犯罪に仕立て上げ、ジェノサイドの危険性を回避する行動を処罰することが当然の「法の行使」だとするならば、1945年以降の世界が前提とし、戦後の日本もこの裁判を肯定する立場から新たな憲法の下で経過してきた 1945年以来の日本の全歴史を完全に否定することになります。
東京裁判やニュルンベルク裁判は成立根拠を持っていなかったことになるのですから。


<救援会注> 抵抗権とは、国家権力の不法な行使に対し,実力をもって対抗し,それによってみずからの権利,自由を守る権利。抵抗権の思想は古代にまでその淵源をさかのぼることができる。抵抗権が憲法的な問題として前面に出てきたのは近代市民革命の時代であり,ジョン・ロックにより自然権のひとつとして提唱され、アメリカ独立戦争やフランス革命の理論的根拠となった。また、ドイツでは戦う民主主義の実現理念として、ドイツ連邦共和国基本法の基本理念を破壊する政治行動に対する抵抗権(第5条3項から第18条、第21条)が明文化されている。


  シビアアクシデントは、野田佳彦首相が2011年12月に収束宣言をしたが、まったく収束していません。『安全・安心神話』なるものが真実ではなく、ほとんど全ての情報が民衆を欺くための手口であったことが明らかになっています。原発推進政策を推し進めるために、ありとあらゆる嘘とペテンを使って民衆を欺いてきた政府・行政・電力会社やその関係者、報道機関も含めて、フクイチ・シビアアクシデントに対して、その被害者に対してまずは責任をもって補償しなければならない。司法もまた完全にこれを補強するために協力してきたことは、事実として明確になってしまっています。

浜岡のことは省略します。(*1)

  起きていることは、自民党の石破が「原発は安全保障のために必要」と言ったように、核爆弾を作ることが出来る原料=プルトニウムの確保と、権力を持ってい る東電をはじめとする資本集団の利益確保のためには、「何十万人・何百万人が犠牲になろうとも構わない。現在の利権構造の維持こそが全てに優先する」「こ れを維持するためなら、日本がどうなっても構わない。利益こそが全てに優先する」というむき出しの資本の論理と核戦争も辞さないという表現そのものです。 これはジェノサイドの強行宣言です。

 世上言われている「支配者の忠実な番犬としての警察・検察」「バレない証拠改ざんはOK、フロッ ピー前田はドジ」「ゴビンタさんの冤罪を以前から知っていた検察」「支配にとって都合の悪い政治家生命を奪える検察」そして「困ったときは『統治行為論』 で責任回避」「ヒラメ集団の裁判官達」と揶揄されている現実は、個々の検察官・裁判官にとって容認出来る表現ではないと確信しています。

  3.11を契機にこの社会は、根本において機能すべき法体系そのものが破綻しているのです。フクイチから放出される放射性物質については司法の場において も「無主物」であることを決定しました。東京電力の責任は問われないのです。今日の国家は土地資産等の生産手段の喪失や価値の暴落、経済的損失、更にはもっとも重要な国の将来をも含めた主権者・生産者・納税者である民衆の健康被害の賠償を拒否することを基本政策としたのです。未だに避難生活を強いられて いる16万人を筆頭に、憲法25条の権利=「健康で文化的な生活を営む権利」は奪われたままです。さらに平和的生存権と財産権を保障した憲法の否定が現実 に強行され、このことは日本社会が法治国家であることの完全な否定なのです。

 被爆地域の子供たちや住民を放置し、被爆地に定住することを強制し、そのため許容レベルを一挙に改悪してまで放射能汚染の中での生活を強制し、『絆』キャンペーンによって汚染ガレキを拡散し、汚染食品の流通と摂取を奨励し、農業・漁業補償を否定し、「財産権や生存権」は空文句となり、社会が成り立つための根幹である基本的人権の尊重は行政・司法などの国家に否定され、実行されたのです。

 フランス革命は、私有財産の権利を定め、個人の財産を国家が保障するという理論を確立しました。そのことは資本主義的生産様式をカッコ付きではありますが『発展』させた重要な根幹でありました。現在のこの国は、憲法をはじめとする法律に明文化されたこの法の論理を、政府・司法の名において自ら否定したのです。社会の土台であるべき私有財産権を侵害することが、「国家・大資本が行なう限り法の制限は受けない」とする社会は、生産活動や技術革新等が発展することなどありません。そのように努力することの動機が生まれないのです。また、今日の基本体制である資本主義社会は、自由な市場経済の成立が前提です。その重要な基本要件を完全に破壊しているのです。他ならぬ国家・資本によって。

 「国政の権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する」という、ロックの精神は憲法の前文に記されています。この精神が国家によって破壊されているのです。にもかかわらず、国家暴力の行使のみは刑法・刑事訴訟法などの下位法律の適用をもって「自由自在に行使する」というのであれば、民衆はそのような『法』に従う義務も責任もないのです。
 福島棄民政策と、この間の反原発運動や放射能ガレキ焼却反対運動に対する弾圧は、 「民衆の生命・自由・財産等は国家の帰属物である」という、憲法とその下での社会の全否定であります。あるのは「憲法とその下にある法体系」の「適用」などと表現することさえ、本当にあるのならば「法律家としての良心」をもっては困難な事態の進行です。「自己の良心にのみ従う」ことを基本とする裁判官でさえ、法秩序を維持することが不可能な程の法体系の破壊が、他ならぬ憲法遵守義務が明記されている者によって行われています。

 私たちが現在暮らしている社会は、以上のように、まずは憲法に規定されている遵守義務を負うべき者たちが破壊し、民衆には下位法である義務のみを強制する。社会を破壊している支配者達に都合が悪い民衆には「法に基づいている」かのような体裁を取りつつ、不当に弾圧する。これは、多くの民衆の共通の認識になっていま す。
 この実態を容認し、「法による支配」と強弁するなら、「人間の生命と尊厳の唯一絶対性」を前提としない法律などは、民衆にとって守られるべ きものではありません。1パーセントの支配者・搾取者と99パーセントの被支配者・被搾取者の間には、いかなる意味でも妥協する余地はありえないのです。 民主主義なる「イチジクの葉」で装っても、今日の『命』をめぐる問題では、人道的・倫理的に破綻しているのは国家・行政・司法であり、電力会社を初めとす る資本なのです。

 この憲法破壊や人間社会の破壊を許さないため、民衆が抵抗権を行使することは、民衆には憲法に規定された義務なので す。12条では「自由・権利の保持の責任」が「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と。 また97条では「基本的人権の本質」が「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、 過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」と記されています。「国民」「努力」と意図的に誤訳される前の原文では、PEOPLEでありSTRUGGLEと記載されていたのです(救援会注あり)。これは正確には「人民」「闘争」と訳さなければならない。この 2条のみが、国民の努力を規定しています。他の全条は、国・公務員の義務です。


<救援会注> peopleを「国民」とした場合、在日外国人を憲法の埒外におくこととなる。また、struggleについては、GHQより草案が出た直後の外務省(当時)訳によると、「此ノ憲法ニ依リ日本国ノ人民ニ保障セラルル基本的人権ハ人類ノ自由タラントスル積年ノ闘争ノ結果ナリ」とあり、「努力」ではなく「闘争」とされている。草案には、努力を意味するendeavorではなく、もがく、あがく、争うを意味するstruggleが使われている。


 憲法で規定された努力義務を果たすことが下位の法律である刑法・刑事訴訟法などで処罰される。これが「法に基づく統治」であるなら、完全に論理破綻しているのはどちらか、明らかなのです。
 この対立を前提にして支配を強行しようとするなら、人類の歴史を紐解くまでもなく、対立の実践形態は行き着くところまで行かざるを得ないのです。既に支配者たちによって秩序を維持するべき基本が破壊されているのですから。
 擬制的にでも存在した「法治国家」は既に破壊されているのです。

  憲法を初めとする法体系の遵守者・擁護者たる裁判官は、近代法成立以前の社会の再現を容認するのか否か?が今問われているのです。その社会とは、弱肉強食のむき出しの対立が日常になる社会であり、民衆にとっては自分たちの生命は民衆の集団による団結の力、むき出しの力をもって守ることを選択せざるを得ないのです。それが、どのようなことなのか?聡明な皆さんは想像できるはずです。

 大飯原発再稼働の問題について言います。
  2011年12月の野田による「収束宣言」は完全にまやかしであったことが明らかになっています。「再稼働ありき」の策略でしかなかったのです。この入口そのものが完全にペテンであり民衆をたぶらかすための、嘘八百であったことは誰の目にも明らかです。それは、先程簡単に述べたことだけでも明らかです。皆さんはこのことに対してどのようにお考えになるのか?これを「統治行為」として免罪できるのでしょうか?

 「収束宣言」当時でさえ放射性物質の生成と拡散は止まってはいなかったことは、共通の認識でありました。それでも、野田や政府・行政に「収束宣言」する必要があるとすれば、パトロン達 から“切り捨てられない"ことを最優先し、事故が起きれば、福井・関西更にはもっと広範に被害をもたらすことが確実な大飯原発を再稼働するために、民衆の命などは省みる対象ではないということです。

 3・11によって、原発の「安全・安心神話」は完全に崩壊しました。それまで基準・指針と してきた原発を設置・稼働するための基準や再稼働基準が完全に崩壊したのです。電力会社や原発を推進しようとする側にも、当たり前の人間なら、「このような事は二度と起こさない」と思うはずです。地震・津波が起きても「安全な原発を一から作ろう」と考えるのが当たり前の人間です。しかし、この間の経過は、 このような民衆の、為政者や電力会社を初めとする関係者に対する期待や信頼を完全に裏切ったのです。

 フクイチを「収束」と偽り、原因も究明できていないのに「暫定基準」なるものをでっち上げ、でっち上げられた「暫定基準」さえ満たしていないのに、「再稼働」を認めていく。大飯原発では、 「暫定基準」の中の免震重要棟、バグフィルター、津波に備えた防潮堤その他が、再稼働時点でさえ「2015年度完成予定」という約束で再稼働が決定されたのです。

  形ばかりのストレステスト、審議会、委員会や、執行責任ある者たちが決定したことは「法に則り、違法性はない」「統治行為だ」とする。これを、当公判においても「問題なし」と貫かれるのなら、「法とは何か? 何のためにあるのか?」と本質的な存在意義から考え直すべきだと思います。法律がかりそめにも機能するには、憲法にもとづく生命・財産や、平和的生存権、基本的人権の保障などの優先事項から逸脱する法の執行には、厳密な検証が必要であり、そのために三権分立が存在しているのではないか?

 6月30日へ向かう過程は、多くの「再稼働反対」の民衆が監視テントに集まり、「7月1日の再稼働は、時間設定不明の核爆弾のタイマーが作動する日だ」「外から反対を言うだけでいいのか」等の、多くの声に接しました。

  今回の再稼働は、この島では、「法的には問題ない」なのかもしれません。アウシュビッツ強制収容所の行為も、当時のドイツ・ナチス政権下では合法性を担保されていたのです。オキュパイ大飯はジェノサイドを阻止する直接行動そのものです。しかし、この島では、あったかないかは不明でも、犯罪として断罪する。 あなたたち裁判官にとって、ニュルンベルク裁判は不当判決で間違っていたのですよね。

 法を執行する皆さんには常に基本があるはずです。それは、人道や人倫、憲法に照らしてどうか? 「法の精神」に立ち返ってどうか? が基本のはずです。
 「平和的生存権」はすでに名古屋高裁において確定しています。自衛隊イラク派兵違憲訴訟で。

  いつフクイチの二の舞になるかもしれない大飯原発再稼働で何百万人、何千万人という人々が「ダモクレスの剣」の下で日々の生活を送らざるを得ない状況に置 かれたのす。1961年ケネディ大統領は国連で「地球のすべての住人は、いずれこの星が居住に適さなくなってしまう可能性に思いをはせるべきであろう。 老若男女あらゆる人が、核というダモクレスの剣の下で暮らしている。世にもか細い糸でつるされたその剣は、事故か誤算か狂気により、いつ切れても不思議は ないのだ。」と。この核を原発にしてみて下さい。
 現実を見れば、放出され拡散し続ける放射能は、広島、長崎の二度の核爆弾によって生成された量を桁違いに上回っているのです。


  多くの民衆はすでにフクイチの現実を知り、大飯原発再稼働が「ダモクレスの剣」の下での生活であることを知っています。日々不安と恐怖を感じながら。もう すでに、アンクル・トムやブラック・ジョニーのように生きることはできないのです(救援会注あり)。またそれが、長期に渡って可能な程、私たち人間は我慢できる資質を持っ てはいません。
 いかに恐怖政治や弾圧の嵐をもってしても、抑え難い怒りの爆発が噴出することは明らかなのです。裁判官をはじめとする皆さんも、この大状況の中の住人なのです。今日の利益のために、立場の保持のためにアンクル・トムやブラック・ジョニーとして生きるのですか?
先に触れたような時代の到来を望むのか否かなのです。

救援会注:「アンクル・トムやブラック・ジョニー」は、アメリカ合衆国の黒人差別問題に於いて、抑圧を受けているにもかかわらず「イエス・キリストを信じ、奴隷としての秩序を受け入れ、その中での平和を愛していた」者の代表としてここでは語られている。アンクル・トムやブラック・ジョニーのままでは、何も状況は変わらない。自らの奴隷性、抑圧されている現状に気づき、それを認め、「おかしい」と声をあげて初めて、問題は「問題化」され、解放へ向けての行動をうみ、闘いが始まる。


 最後に、本公判では、検察は起訴状記載の各事実を立証できなかったのです。
あなたがた裁判官が同じ環境に生活しながら、あえて法の精神や憲法を無視した現在の状態で、下位の法律の適用をもって被告人を断罪するというのであれば、民衆にとって「法」とは、遵守するべきものではなく、自らの力で新たな社会を築くことを選択するしかないのです。それは、先に触れた通りです。

  オキュパイ大飯の闘いによって発火した炎は、燎原の炎のように全国に拡大し、現在のような状況が転換されない限り、どのような弾圧をもってしても鎮圧することはできないのです。例え、私一人を処断したとしても。次から次から新たな闘いの主体が登場することは明らかなのです。
 
 フクイチ・シビアアクシデント以後の状況を見れば、真の意味での正義がどちらにあるのかは自明なのです。ただただ一部の利益のために数多の民衆の命と生活を犠牲にする原発推進か?それとも、未来のための原発反対か?こう、問題は立てられているのです。

裁判官の賢明な判断を求めます。

以上


「浜岡のことは省略します」(*1)
時間が限られた公判廷の制約から,浜岡原発についての意見は省かざる得なかったとのことです。
割愛した部分を補足しておきます。

※補足1
 昨年(2012年)夏からのセシュームのみの簡単な測定でさえ、信じられない数値が報告されています。

• 2012 年8月 福島県内の腐葉土で最大23 万2980 ベクレル
• 2012 年9月 千葉県柏市大津川上沼橋で2万2000 ベクレル
• 2012 年12 月 福島県浪江沖の海底土から2000 ベクレル以上
• 2013 年1月 千葉県成田市の乾燥シイタケから370 ベクレル以上
• 2013 年1月 宮城県産ソバから140 ベクレル
• 2013 年2月 群馬県榛名湖のワカサギから340 ベクレル
• 2013 年2月 長野県佐久市のリンゴ剪定枝から48 ベクレル
• 2013 年2月 千葉県銚子沖のスズキから130 ベクレル

  3・11から1年半以上を経過してさえこのように汚染レベルの進行と地域的な拡散が進行しているのです。福島では「除染」という名の「移染」が大々的に行 われています。http://twipple.jp/ - connection_timeline「除染」直後には一定の放射能数値の改善が見られるのですが、数日もするとまた元の放射能値に戻ってしまうという ことが繰り返されています。
 また、「除染」という名で行った汚染された物質の保管場所はどこにもないのです。この過程でも総量としての放射能が どこか人間や環境に危害を与えない形で密閉されているということもないのです。簡単なバッグに入れられて、子供たちが毎日通学している道端に放置されてい るのです。従って放射能汚染に対して何かが改善されていることは全くなく汚染が深刻化し拡大しているのです。
 チェルノブイリでは事故後4年目か ら癌患者が急激に増えました。日本では「2015年頃から、福島では一挙に病気が発生する可能性が高い」とチェルノブイリの調査を行ってきた専門家から警 告されています。このチェルノブイリの事故はたった一基の原発事故でした。当時のソ連政府は事故を起こした原発を石棺化するための決死隊を使ってわずか一 週間で収束させ、完全封鎖を行っているのです。そのようにして完全に反応を止めたチェルノブイリの事故でさえ上記のような多くの被害が出ているのです。
 フクイチ・シビアアクシデントでは、四基の原発が破壊され、未だに収束すらできずに、新たな放射性物質が発生し続けているのです。

※補足2
 多くの政治的争闘の裁判の中で使われてきた用語に「公共の福祉」があります。法律的表現として常に「公共の福祉」なる誰もが明確に統一した概念規定ができない「幻想」用語(あるいは共同幻想)=曖昧な表現が司法の世界では跋扈し続けています。
この便利に使用できる「公共の福祉」なるものが、実は支配者にとっての利益であり、この名をもってする民衆の抵抗権の当然の行使を処断するための便法であることは、今では多くの民衆の知るところなのです。
3・ 11以前ではありましたが、静岡県にある浜岡原発の差し止め訴訟の判決前の公判で、裁判長が「東海地震の起きる確率は何パーセントですか?」と原告に質問 してきたのです。この質問は、裁判長自身が「地震が起きたら浜岡原発の安全性は確保できないかも?」と公判の過程では思いながら、地震発生の確率の程度を 判断の根拠にして判決を起案することを考えていた事の端的な表現であったのではないかと思っています。国家政策と電力会社を初めとする資本集団に対して、 『司法の独立』などはすでに失われていることの端的な表現なのです。『ヒラメ裁判官』という言葉が世に蔓延している現実を真摯に捉え返さない限り、「司法 の権威」は無きに等しい状況にあることは明らかなのです。

 はじめに行うことは、①フクイチの本当の収束であり、②原因の究明と対策方針 の確立であり、③それと並行しての被害者の救済と補償であり、④新たな基準や指針が全民衆から了解されること-などであるはずです。収束もしていないフク イチを「収束」と偽り、原因も究明できていないのに「暫定基準」なるものをでっち上げ、この新たにでっち上げられた「暫定基準」さえ満たしていないのに、 「再稼働」(再起動)を認めていく。

 大飯原発では、「暫定基準」の中の免震重要棟、バグフィルター、津波に備えた防潮堤その他などが、 再稼働時点でさえ「2015年度完成予定」などという破られても誰も責任を取らないような約束で再稼働が決定されたのです。3年先にはブレーキをつけるか ら、このまま高速道路をブレーキなしで走らせろ。と要求されて、この国の為政者は、「はい分かりました」とOKしたのです。「オイオイ今は2015年では なく2012年だ。そんな危なっかしい自動車を走らせるな」と思うことが、当たり前の精神を持った人間として当然ではないでしょうか。
アンクル・ トムやブラック・ジョニーが神を信じ、黒人奴隷としての平和を愛していたとき、黒人奴隷の解放を本気で考えただろうか。黒人の奴隷的秩序を運命のごとくう けいれ、その秩序が動揺して安穏な生活が破壊されることを恐れていたのです。神の前の平等だけが、彼らの唯一の救いであったのです。
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